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昭和42年03月11日 朝の御理解



 「神の思いを人知らず親の思いを子知らず」と。天地の親神様のお嘆きのお言葉だと、私は、思います。「神の思いを人知らず親の思いを子知らず」と神様の思いが分かれば、親の思いが分かれば、その難儀はその場で解決とまではいかんに致しましても、苦しみの中から助けて頂く事が出来るのですけれども。神様の思いが分からん所から親の心が分からん所からお互いの難儀が始まっておるというふうに思います。
 そんなら、神の思いを人知らずと仰る。どう言う様な事だろうかと。親の思いを子知らずと言うことは、どういう意味のことであろうか。またその子供が親の思いが分かり、氏子が神の思いが分かったら、なぜその苦しみから解脱することが出来るか。苦しみから逃れる、逃れると言うといかんですけれども、苦しみがなくなるとか。神の思いが分からんところに苦しみがある訳なんですね。
 咋日、私、善導寺の親先生が、大工の棟梁、あの竹野さんとの打ち合わせがございましたために、現場にお出でて頂きました。私も、どうしても、行っておりましたから。ちょうどそこに、私を尋ねてみえた婦人の方が二人ございました。八女郡の黒木というところからお見えになって、大藤で有名なところですね。前も一遍、お引き寄せ頂いたんですけれども。先生とお会いが出来なかった。
 所が先生その私と同じ苦しみで難儀をしておられる方がありますから、その方を一緒に今日はお導きして、その方と一緒におかげを頂きたいと思うて参りましたら、又先生がお留守である。ですから現場まで尋ねてきておられた訳なんです。なるほどお話しを聞きますと、二人ともよう似たような難儀ですね。なるほど苦しかろうと思います。ですからその難儀の中から、もう本当に一時でも早よう助けて頂きたい。
 その難儀の中から一時でも早く逃れたいという願いで一杯なんです。いろいろ、あちらで、お話しさして頂いたんですけども、その方のことをお願いさして頂いとりましたらですね、どうしましょうかね。身体をですね。がんじがらめにこう括られておられる、こんなにして、くくられておられるところを頂くんですね。なるほど、こりゃ窮屈だと私は思いました。皆さんが、難儀な思いをする。
 苦しい思いをすると、という時には、まず私自身も銘々もそういう難儀な中にあるんだという事を思わなければいけません。苦しいですところが不思議にです、神の思いを人知らずと仰せられる、その神様の思いが分かってくるとです。その苦しみがなくなるのですよ。親の心を子知らずと仰るが、親の思いが分かったらです。そこに本当に神様すみません、親様済みませんと言う。それこそお礼の言葉しかないのです。
 親の思いが分かり神様の思いが分かった。もうその場でです。神様相すみませんと、お詫びが出来たりお礼を申し上げられたりするのです。その場から苦しみがなくなるのです、本当言うたら。いや苦しみがあってもです、苦しうございますと。例えば病気なら病気の苦しみがある。それこそ、入院も出来ないような重体な病人が床の中に寝ておる。床の中の牢に入っておる様なものですからね、あれは。
 出られんのですから。ですからその床の中から一時も早う出ろう。その病院の中から、一時でも早く出ろうと言う、そのもがきが、そのもがきの、いわば苦しみなんです。そこんところが、神の思いが分からなければいかんのであり、親の思いを知らなければならんのであります。なぜと、なぜと言うことなんです。天地の親神様がです、氏子可愛いという御一念だけしかおありにならないと。
 親が子を思う時にです、この子がひとつ難儀をすりゃよかがと、この子がいっちょ苦しめばよかがと。もう腹ん中から本当に、憎うしてたまらんといったようなものが、ある筈はないのですもん。ですから、親の思いを、まず、、分からなければいけんのであり、神の思いが分からなければいかんのであると。しかもその親が、子供が可愛いいと言う親心一途であると同時に、天地の親神様も又、氏子かわいいという御一念だけしかおありにならない神様であるということが分かる。
 神様が、お生かしのおかげを下さっておるからにはです。親と子、名が付きゃです。もうお前のようなものには食べさん。お前のようなものには、着物も着せてやらないというような 親がないように。寒けれぱ着物。ひもじかろう時には、食べ物を与えるように、その苦しみなら苦しい、苦しみの中にです。神様の思いを分かっていくところに、苦しうございます。本当に窮屈なことでございます。
 場合によって恥ずかしい思いも致します。けれども、けれども、有難うございますというものが、その後に伴うてくるのです、神の思いが分かると。私は、その婦人の方達二人を、お取り次ぎをさせて頂きよりましたらですね。そのことについてお取り次ぎさせて頂いておりました。そしたら、その、がんじがらめに括ってある、その固い結び目をですね。こう、解こうと、誰かがしておるところを頂く。
 お取り次ぎを頂くところから、もうその働きが始まるのですね。その、がんじがらめに括られておる、その縄を、自分の力でこれを一生懸命外そうとしておる訳なんです。外して下さるのは、神様なんです。ですから、いわば、苦しいのですよ。括られておるのを、こうやって自分で、自分の力で、力んでです。それを切ろうと思うたり、解こうと思うたりするところに苦しみがあるのです。
 本当にもう、思いもよらぬことで苦しみを感じる時にはです、自分でその、苦しみの中から、自分で逃れようとしておるから苦しいのです。ですから、ここで言うなら、括られたまま、じっと私は、しとかなければいけないと思う。そうすればです、相当窮屈さはあってもです。そんなに痛いものでも、苦しいものでもないです。しかも、そうしていたら、あーた、日干しになってしまう。それはないのです。
 それが親なんです。そこが神様なんです。これば日干しにしようと、これば殺してやろうという様な神様の思いやら、親の思いがないようにです。ただ、じっとしておればです。こちらからいかん、神様が、飲むものは、頂くものは与えて下さるのです。例えば、ほんなら、十年なら十年、二十年なら二十年の刑を受けておる囚人にですら、やはり、食べ物が与えられるじゃないですか。
 それを自分で、ほどこうとし、その綱を自分で切ろうとするところに苦しみがあるのです。ですから神様の思いが分からして頂く時にです。よくよく分からして頂けば、成程、括られた刑ばおらない理由、苦しまなければならない理由が、自分自身にあったことが分からし貰うてです。そのいうなら解放される日を待たして頂くというとことと同時にです。親の思いが分からせて頂くところに苦しうございます。
 けれども神様、相済みません。けれども有り難いというものが生まれてくるのです。なぜって、本当にこう身動きも出来ない自分に、神様が与えておって下さるのですもの。まだ息もお許し下さって、息もさせて頂いていることもお許し下さっておるんですもの。目が見えておることもお許し下さっておるんだもん。いくら窮屈だと言うても、足までは括ってないんですから。言わば、歩けるんですもん。
 ですから、そういう苦しい中にでも、現して頂けば頂くほどに、あれもおかげこれもおかげと分からせて貰うからです。苦しいけれども有り難いという事。親の思いが分かり、神様の思いが分かる。神様の思いが分からせて頂くところからです。本当の信心が出来るのであり、親の心が分かるところから、本当の親孝行が出来るのです。その親孝行が出来る、本当の信心が出来るところから、人間の幸福が約束されます。
 本当の信心を目指さずしてから、ただ、これから解放されたい、解放されたい。この苦しみから、早く出たい、早く出たいというところにです、信心も分からんなりに、親の思いも分からんなりにでは、いつまで経っても、その難儀は、その甲斐を忘れても、次には、又、その苦しみと言うものは付いて廻るものです。苦しい時にこそ、神様の思いが分かる時であり、親の心が分かる時である。
 親の心が分からんから親孝行が出来ん。神様の思いが分からんから、真の信心が出来んのです。どうしたら信心が出来るじゃろうか。神様の思いが分からんけんくさい。そうでしょうが。神様の思いが分かりゃ。神様の思いに添わなければおられんのである。親の心が分かれば、この親に、どうとかして喜んで貰わなければおられないという心が生まれてくるのです。それを親孝行と言い。
 それを真の信心とこう言うのです。神の思いが分かり、神の思いに添わして頂くという事なんです、真の信心と言うのは。ですから、その窮屈な、苦しい思いをしておる時に、神様の思いが分からして頂いた、親の心が分からして頂いたと言う時にです、本当に、あの難儀、あの苦しい時に、本当の信心が分かったんだという。そういう苦しいところを通らなければ分からないものが分かるのですよ。
 そして、よくよく後で分からして頂きます事は、あの苦しいことがです。こういう幸せを下さるためであったと。それが神様の思いが分からして頂く為であったという。神愛を分からして頂く事の為の、その苦しみであった、難儀であったという事が分かるけれども。その、神様の思いを分からずに、その難儀を、例えば、じだんだ踏むようにして、まぁこれを説いて貰っただけではです、解放された。
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